それでも同じ日本語

『思い出を切りぬくとき』(萩尾望都)を、朝から読んだ。
10年以上前に出版されたエッセイであるが、
先日ブックオフの105円コーナーで見つけ、存在を初めて知った。


半分くらい読んだあたりで、一休み。
休憩中に机の上を片付けをした。
そのときに手に取った『おとなの進路教室。』(山田ズーニー)の、
指にかかったページを開いてみる。


少し読んで、驚いた。ことばがまるで違う。
「これは、同じ日本語なのか?」


『思い出を切りぬくとき』は、萩尾氏の日々のことを散文的に書いたエッセイで、
作者の主義主張があるわけではない。
ファンとしては、氏の作品がどういう思いや事情で出来上がったのかを
知ることのできる、楽しい本だ。


萩尾氏のエッセイを読んだすぐあとだったから、
自分の心が、ストレートの直球を受け止める準備ができていなかったのだろう。


『おとなの進路教室。』を数行読んでみたら、息つく余裕がない。
以前、読んだときには感じなかったのだが、書いてあることばの一言一言が強い。
同じエッセイなのだが、こちらには作者の主義主張がある。
読む側として、キチンと準備していないと圧倒されてしまいそうだ。


これは、言葉の使い方の違いなのか、文章の展開の違いなのか、考え方の違いなのか。


現段階での答えは、
萩尾氏は、「なぜ?」という疑問を放っておける人、
山田氏は、放っておけない人、という対比くらい。


もう少し時間をかければ、もっといい答えが出そうだと思うけれど
きっと、そんなことすぐにわすれてしまうんだろう。


でも、言っていることが正しいか間違っているかではなくて、
ことばって、話す人、書く人によって、ずいぶんと違うものになるんだな、
と感じたひと時だった。


『ほぼ日』トップページの、糸井重里氏のエッセイ、毎日楽しんで読んでいるけれど、
はなしの流れが一貫していないとき、展開がつながっていないときがある。
注意してれば「あれ?」って感じるけれども、
流された気持ちで読んでいると、何の引っ掛かりもなく
「今日も「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。」
という、おきまりのオチにたどり着く。


糸井氏のあの独特の語り口が目に浮かぶから、ついつい流されてしまうのかもしれない。
これも、山田氏の言う「メディア力」。


でも、同じ日本語なのに、なんでこんなに違うのだろう。


同じ魚でも、いわしと鯛では全然味が違う、っていうのと一緒か。
あんまり上手な喩えではないかな。