悩むことは、成長するための通過儀式

去年、完了した仕事の件で、クレームの電話が入った。
自分としては、完璧に仕上げたつもりなのだが、相手に対する気遣いが足らなかった。 


相手が文句を言うのは、一理ある。
当時の自分の対応が、あまりにも事務的であった。


相手の方が感情を抑えてくれているから、飛んで行って頭を下げる必要はないが、
お詫びの挨拶をいつにするか、決めなければならない。


気持ちが塞ぎこんでくる。
そうなると、精神が逃避行動に走り、どうでもいいことにばかり、やろうとする。


たまたま手元にあった本を開くと、


  揺れ動き、悩むことが、私たちの「生命」の本質であることは、間違いありません。
  「私」という存在が、単なる固定化された情報の集まりでは、つまらない。
  「私」がデータベースなどに置き換えられるはずがないのです。


「脳」整理法(茂木健一郎)だ。


悩むことが、生きているということらしい。


でも、
「悩む」っていやだ。
どうして、悩んでしまうんだろう?
どうして、悩みって消えないんだろう?
悩みってどうやって解決するんだろう?


あれ、今回の悩みって何だっけ?


よくよく考えてみると、今回のクレームは、
真摯な応対をしなければいけない事柄だが、
出口のない問題ではないし、それほど厄介というわけでもない。


社会生活を営む上では、よくあること。
(もちろん、クレームとなるようなことはやってはいけないが)
それに、電話の口調を思い返すと、
相手の方はずいぶんと感情を抑えてくれている。


もっともっと、前向きに捉えて対応しないと
クレームをしてくれた相手の方にも失礼だろう。


「悩む」とは、成長するための通過儀式なのかもしれない。