物語論的な理解

『ストーリーメーカー』(大塚英志氏)に、気になる記述があった。  
                  
  「三面記事」が理解し易いのはその中の情報が物語として完結しているからで、
  三面記事以外の情報をふまえる必要がないからです。
  そして世界が複雑化していればいるほど、その世界を理解する煩雑さに耐えかね
  理解し易い物語論因果律は支持され易いのです。
  それがまさに「現在」だと言えます。
  しかも、ネットでのニュースの報じられ方を見ればわかるように、
  ニュースの全てが同じ字数で最小限の情報として整理され、
  それらが配置される文脈や世界像はむしろ読み取りにくくなっています。
  それらを断片化した情報はそれ自体は意味をもちにくく、
  つまりプロップの言う「機能」にむしろ近づいてしまっています。
  だからこそ、それを理解する時に最も手間のかからない手続が
  物語論的な理解ということになってしまいかねないわけです。
                          
何か事件とか起きたとき周囲の人が、
すぐに答えを欲しがるようなコメントをするのが不思議だった。
テレビのワイドショーに出演しているコメンテーターの、
短絡的な発言をしばしばは聞くにつけ、不愉快な気分になったけれど、
それは、コメンテーターの性格やテレビ局の方針だけが理由じゃなかった。

わからないことがあったら、すぐに正解を「辞書で引く」ように、
「ネットで検索する」ように何も考えず何にも悩まずとなっている。
                
自分だけはそうなるまい、自分の頭で考えようと心にきめていたつもりだ。
だけれど現代社会を生きるためには、一つ一つの情報を「機能」として捉えざるを得ず、
自分独自の「物語論的な理解」をしてしまっているのか。