自分が入っていない

吉本隆明氏と糸井氏の対談から。
                         
  吉本 いろんなことにくわしく、要点をまとめることができたとしても、
     自分が入っていない場合があります。
     そういう人の意見を聞いていると実感がないから、どうしても不満が残ります。
  糸井 どんなに勉強してもダメなんですよね。
     「自分が入らないこと」は、もしかしたら現代の病かもしれません。
     しかし、最近、お笑いの世界では、
     自分が入っている実話や楽屋話を芸にする人たちが増えてきました。
     太宰治織田作之助私小説を書いていた時代のあの確かさを、
     芸人さんが、お笑いの中に自分で入れて「私お笑い」をはじめたんでしょうね。
     自分を入れなくてはお笑いが成立しないということを敏感にわかったんだと思います。
  吉本 自分が外側にいたらダメなんです。
     お笑いだけじゃなくて、文学もそうですし、きっと政治もそうだと思います。  
     自分が入ってこないし、そして、入ってきたと思ったら、
     それはよくよく聞いていると他人のものだったりする。
     (前の)総理大臣だってそういうところがあったんじゃないかな。
     だけど、ひと昔前の、根拠地型の政治家は、自分が入ってることしか言わない。
     それはやっぱり、自分をいれない人にいまは押しまくられちゃうんですよ。
  糸井 自分の「痛い」だの「痒い」だのが入った考えが、ほんとうは必要なんだけど、
     いまは「痛い」「痒い」を言っちゃいけない時代なんでしょう。
                   
この二人の話しを読むかぎりでは、
今の自分のぼんやりとした気持ちも、マンザラではないかな、という気になる。

仕事上のことなどで、「実感」の伴わないことは、どうしてもハッキリ言い切れない。
ウソをつきたくないからなんだけれど、相手にはソコが弱弱しく感じとられてしまう。
                     
饒舌な話術で場を作れる同世代を見るにつけて、
借り物のような内容ではあるけれど、
妙に納得させるのが上手な人が羨ましかった。

もちろん、そういう目立つ人たちも見えないところで、
情報を仕入れたり話術を磨いたりの努力しているとは思う。
だから、自分も少しはマシな話ができるようになりたいと思って
本を読んだりしてきたが、やはり他人からの受け売り話しでは身に沁み込まない。
                                      
だけど、ああいうかっこいい言い回しを「自分が入っていない」って
思っている人って、他にもいたんだ。
                     
だからといって、今の自分を社会にアピールするためにどうしたらいいか、
という答えにはなっていないんだけれど。。。