本の本籍と現住所

今日もbk1の店長である安藤哲也氏と、糸井氏の対談から。

  安藤 ぼくは、本についてよく「本籍と現住所がある」って言うんです。
     既存のカテゴリーでいくと、「人文書」「実用書」「出版社別」
     といったものがありますけれども、でも、切り口だとかテーマで見ましたら、  
     「いま、どんな人に読んで欲しいのか?・・・だったら、あの雑誌の横がいい」
     というように考えられますよね。       
     昔、永六輔さんの『大往生』がありましたが、
     でも、あの本を買いたいおばちゃんたちは、
     たぶん、岩波新書の棚には、行かないだろうと。
  糸井 本籍は、「岩波新書」というわけね。
  安藤 そうなんです。
     ところが、現住所はどこかを考えた時に、
     ぼくは「壮快」とか「安心」という健康雑誌の隣に、平積みするわけです。
                       
  安藤 アナログ的な広がりのないところでは、
     予定調和的な作り手と読み手の関係しか、生まれないじゃないですか。
     作り手と読み手がもっとクロスするような
     化学反応みたいなものを、どういう風に作るか、
     なんだろうなあと思っています。
     ぼくは書店の棚配置で「文脈」を作るけど、
     読者も、自分の棚に「文脈」を作ってほしい、と感じているんですよね。
                        
安藤氏が本について語っている「本籍と現住所」って他のことにも言えるのだろう。
「文房具」「家具」「靴」「傘」あー自分の身の回りの物しか思い浮かばない。
「売れる物件」「遺言の必要な人」「子供のためにいいこと」「夜空の星」「天気予報」...
ムリヤリ書き出したけれど、なんと脆弱な脳ミソ。
                               
我々は何か新しいモノやコトに接したときに
すぐ、どこか自分の頭の中の分類棚に入れて、安心したがる。
その時、どこの引き出しに入れるかは、
それまで自分が持っていた地知識の範囲で判断する。

よく、「顧客第一」とか「お客様目線で」とか言うけれども、
なかなか自分の思考回路からは抜け出せない。

そん中でも新しい切り口で表現できてる人って、
きっと何通りもの実験を繰り返しているんだろう。