本当に必要なもの

東北関東大地震のことについて、初めて書く。
                  
多くの被災者の避難生活を、TVで観る毎日。
寒さの中、避難所での不自由な生活を、TVカメラは現地から送ってくる。
キャスターが非難生活での不足しているものを質問すると、
「食料」「水」「薬」「灯油」「毛布」などのほかに、
「ガソリン」と答える被災者が多かった。
                    
「ガソリン」と聞いて、何か違和感を覚えた。
              
ガソリンが無いから、車で移動ができない。
車で移動できないと、必要な物資を買いに行けない。薬も購入できない。
親類の安否を確認しに行けない。
     
生活すべての潤滑油になっているガソリン。
田舎で生活するには、車が欠かせないのだから、
当然の帰結なのだけれど、何か釈然としない。
                  
最初は、「ガソリン」という有毒性をもったエネルギーに
依存した生活が、おかしいのだと思った。
もちろん、今更どうしようもないことなのだけれど。
 「 じゃあ、すべてが電車になればいいのか?」
 「 でも、今回は電力会社もなかなか復旧していない。」
 「バスなど公共交通機関ならガソリンもOK?」
など現状をどうしたら良いか、という課題からは逃避していた。
                  
ふと考え直して辿り着いたのが、被災者は
「直接的にガソリンを必要としている訳ではない」ということ。
            
ガソリンを食べたり飲んだりしたいわけではない。
ガソリンを体に注射したいわけではない。
ガソリンに包まって、暖をとりたいわけではない。
             
食べ物や飲料、薬を購入したい、寒いからあったまりたい、
そのためストーブに火をつけたい、などの欲求があるはず。
               
生きていくための原始的な欲求を満たすために、
車で移動したい、車を動かすためにガソリンが必要だ、
という順序になっているはず。
                 
被災者は、大変な思いをしている真っ只中なのだから、
マイクを向けられて、思いついた順に挙げていく。
                
でも、TV局の人間はそれを垂れ流しするのではなく、
本当に必要なものが何であるのかを
救い上げる必要があるのではないのだろうか。
                           
「灯油が欲しい」と言っている被災者だって、
暖を取る手立てが他にあれば、灯油は要らないはずだ。
                    
ガソリンをすぐには供給できないのはわかりきったことなのだから、
ガソリンを手渡す代わりに何ができるのか、
本当に必要なモノは何なのか、それを代用する手立ては無いのか、
まで、伝える側の人間が、掘り下げる必要があるのではないのだろうか?
                  
ことばにならない気持ちをことばにする大事さ。