情報の送り手として

以前見た、NHKの『プロフェッショナル』で取り上げていた
グラフィックデザイナーの佐藤卓氏について、検索をしたところ、
『ほぼ日』に過去、出演していたことを知った。


「かわいいマンガ、ここにあります」というタイトルで、
たかしまてつを氏、佐藤卓氏、糸井重里氏、3人の観客を前にしての対談。
ブタフィーヌさん』を単行本発行するにあたり、
佐藤氏に表紙デザインを依頼したのをキッカケに実現した。


その中で、佐藤氏が、表現者としての注意点を述べている。


  「 勝手に送り手が組み立てたものを強引に、
    受け取る側もそうだろうと思って押し込むことを
    比較的、気がつかずにやっちゃうことが多いんです。   」


だから、出来上がったものを客観的に見るようにして、
送り手が発信したモノが、向こう(受け手側)に届くかどうかをチェックする。


ことばでも、絵や、作業でも、何か表現するとき、つい解釈をつけたくなる。
どういう意図でそうしたのか、とかこれはココに隠された○○があります、とか。


解釈をつけないまでも、
「こっち(送り手)の心を気づいて欲しい」という下心から、
本来は不要なものをくっつけてしまう。


わかっていない送り手は、そのような余計なゴミが受け手に対しての優しさだと勘違いしている。
でも、受け手の自由を奪っているだけだ。


情報は、必ずしも送り手の意図した通りには受け取られない。
と言うより、情報は送り手の手を離れた時から、一人歩きをする。
時間の経過とともに、情報の意味合は変化する。
情報の発信場所と受信場所がちがたときも、同様だ。



悪意のある場合はともかく、情報をどのように受け止めるかは
受け手に委ねられている。