時間は意識の流れ

図書館から借りてきた『ことばに出会う』(島森路子)の
横尾忠則氏との対談の章を読んだ。その中で、面白い発言があった。
対談は、1997年6月。


  忙しい中で創作活動をしていると、自分の表現したい主体の部分がなくなってしまって
  考えなくなる。考えなくなると、ひらめきと直感、思いつきで作るから楽になる。
  自我が退行すればするほど、時間は自由になる。時間は意識の流れだから。


ふつうは、(その奮闘ぶりやプロセスを解説するのは個人差があるが)
考えに考え抜いて、絞りに絞って出てきたものが作品です、
といった論調ばかりなんだけれど。。。。


「時間は意識の流れ」ということは、
意識しなければ時間は止まるということなのか?


パターン化した作業をこなす日々は、
後から振り返っても何の思い出がない、空白のような時間だけれど、
横尾氏にとっては、その方のが意義深いとき、だというのだろうか?


自我って消し去った方がいいのか?


また、現代の世相について、言っている。


  今の文化は、みなどこかネガティブで消極的、否定的。
  みな、自分が解放されることを願っているくせに、解放されることをこわがっている。
  それは、等身大の自分を認めるのがこわいから。
  でも、自分を認めることによって、その人は救われる。


読んでいて、自分のことを言われている気がした。
何にでも、否定することから入る。いけないとは思っていても、どうしても悪い癖は抜けない。
だから、ほめるよりも批判する。仕返しが怖いから、けなすことはしない。


過去の自分を捨て去ってしまいたい、新しく生まれ変わりたい、と願っているけれど、
今まで積み上げてきたものを失いたくない気持ちも強い。
自慢できるような過去ではない、たいした財産はないのに、一生懸命しがみついている。


「ただの欲張り」


でも、自分では、等身大の自分を認めているつもりだ。


それなのに救われないのは、なぜだろう?
まだ、吐き出していないモノがあるのか?
まだ、気づいていないモノがあるのか?