立脚点

『おとなの進路教室。』(山田ズーニー氏)の「立脚点」の章を読んいたら、
自分のことを言われているような記述が載っていた。


宮崎の高校生と、東京の高校生で、講演のあとの質問がちがうと言う。


  宮崎の高校生は、自分の経験や実感から沸いた疑問を発してくる。
  それに対して、東京の高校生は、仕入れた知識とか、入試情報に立脚して、
  そこから食い違うこと、わからないことを聞いてくる。
  彼らは、情報に立脚していて、自分に立脚していない。


  現代は情報社会。仕入れた情報は、他人の元にも頒布されている。
  情報に立脚していると、他人と同じ位置から世の中を眺めることになりがちだ。
  立脚点が似ていれば、表現も似てくる。
  表現が新鮮でないとき、他人に上手に伝わらないときは、
  自分の目指す目標や目的を見直すのもいいが、
  自分がそこに立っているかを確認してみるとどうだろうか?


  どこへ行きたいか、は、どこに立っているかで変わってくる。


山田氏が例示した東京の高校生は、まさに自分。
自分は、今までいろんな情報を鵜呑みにし、
情報に基づいていあたら、結局何も成果生まずに生きてきた。
もちろん、そのときそのときに判断したのは自分だから、
弁解の余地はないのだが、あるころから危機感は感じていた。


「そこに自分はあったのか?」


そのとき、いつも考えることががある。


「自分はなにをしたいのか?」


でも、いつも答えが出ない。すぐに忘れる。


自分が何をしたいかなんて、すぐにわかるはずがない。
でも、常に念頭においておかなければならないテーマだ。
このどうしようもない難題に答えられない自分に劣等感を抱いていたが、
解決方法の糸口が見えた。


自分がどこに立って、どこからものを言っているのかを見直してみる。
そのとき、ひとつひとつの事柄に、どう思っているのか、
自分の感情を確かめてみる。