梅棹忠夫『情報の文明学』より

「農業社会においては、缶づめのあき缶などの金属の断片や、ガラス瓶やプラスチック製品などのとるにたらぬ器物さえも、その生産手段をもたぬ人たちには、まるで宝もののようにみえたのであった。
農業社会での工業製品の漸次的浸透は、その人たちのあいだに、おおきな欲望を開発してしまった。
                ・
現在もなお、アジアやアフリカなどの農民たちのあいだでは、いやしがたい物質飢餓症が流行している。・・・工業がかれらの目のまえにその生産物をちらつかせて、欲望開発をやるまでは、かれらのあいだに物質飢餓症などは存在しなかったのだ。
                ・
工業時代前期においては、工業のつくりだす製品群はまことに武骨で、使用目的に精緻にはあわない粗雑なものがおおかった。それは最低の機能を充足すればよいとかんがえられていたのである。それが、現代においては、よほどかわってきている。工業製品はいくらか粗雑さを脱却して、精緻の度をくわえてきた。その変化をもたらしたのは、いうまでもなく情報的要素であった。工業製品は情報化したのである。
工業の時代にあっては、工業製品はそれ自体に内在する価値によってうごくとかんがえられていた。・・・ところが現在では、その品質ということばの内容が変化しつつある。その製品に付加された情報的価値こそが品質となりつつあるのである。
工業の時代においては、ものがうごき、それに情報がのっていた。ものが情報をうごかしていたのである。いまやそれとはちがった様相を呈しはじめている。うごくのは情報である。ものはそれにひきずられている。需要は情報にあり、ものそれ自体は、情報をのせる台にすぎないとさえいえるだろう。需要はいちじるしく個別化している。」


ずいぶん長い引用になってしまった。最後の部分、ものと情報の主客の入れ替わりの箇所だけで済むのだが、農業社会からの進化の説明が本質を抉り出す解釈だったので、ついでに書き写してしまった。


「工業製品はいくらか粗雑さを脱却して、精緻の度をくわえてきた。」
工業製品と同じことが、情報でもすでに始まっている。情報も精緻化を極めたものしか生き残れなくなっている。以前は、粗雑な情報でも、多少は価値があった。しかし、物事の一面しか捉えていない情報や、出所をキチンと確認していない情報は、今はもう通用しない。


「うごくのは情報である。ものはそれにひきずられている。需要は情報にあり、ものそれ自体は、情報をのせる台にすぎないとさえいえるだろう。」
この記述は現在の世の中だ。
だとしたら、これからの主役は何か?
よく言われているように”知恵”なのか?


”知識”ではないだろう。”知識”は、情報の洪水に飲み込まれている。


でも”知恵”って、何なんだ?
”生活の知恵”、”先人の知恵”って簡単に使うけれど、個人的には


      知恵 = ちょっと気の利いた考え


的な意味に捉えていたけれど。